区内在住50周年かぁ・・・・・・
今日横浜の開港記念日だなぁ・・・・なんて思って気が付いた。
横浜市内在住・・・だと56年周年だけどね(笑)
今の区に小学校2年生の時に引っ越してきてからは、実家からマンションへの区内の引っ越しがあったくらい。
横浜市の緑の20%を有する緑豊かな・・・・・・あ、もとい。まぁまぁ田舎な感じが好き。
わんこのお散歩には最適な市民の森が広がってて、こへもきっとここが好き。
でしでし。
今はそこまで積もらないけど、冬に雪が降るとバスが上って来られず陸の孤島となり、高校の時は雪だとこの地区の学生はお休みが認められてたっけ(笑)
越してきた当初は住んでた住宅地は開発が始まったばかりでまだ2世帯しかなく、夜に車の音がすると家族で聞き耳をたてるくらいに人が来るのが珍しく、うさぎはもちろん、たぬき、キツネも普通に生息してた。
営業農家が多くて、最寄りの駅までバスに乗ると景色は全部畑だったし。
ウィキペディアによると・・・
この地域の歴史は、縄文時代にまでさかのぼることができ、公田ジョウロ塚遺跡や桂台遺跡などがある。古代には㹨川流域横穴墓群など、鎌倉型横穴墓をもつ横穴墓群の分布が特徴的であり、上郷深田遺跡では製鉄が行われた。
いたち川は鎌倉時代には霊所とされ『吾妻鏡』に「㹨河」でお祓いをしたことが記述されている。また小菅ヶ谷付近には宿場があり『徒然草』で知られる卜部兼好もこの付近に旅で来たらしく、『兼好家集』の中で「相模国いたち河という所にて、此の所の名を句の上にすえて旅の心を」と題していかにして、たちにし日より、ちりのきて、風(かぜ)だに閨(ねや)を、はらわざるらんという和歌を詠んでいる。
相模国鎌倉郡であったため、特に、鎌倉時代には鎌倉幕府との結び付きが強く、流域の豊かな田園が食料生産を担い、古代から伝わる製鉄の技術とともに東北地方に対する軍事政策のうえで重要な役割を果たしていたと考えられており、笠間中央公園遺跡の鎌倉道など数多くの史跡が残されている。本郷台駅前付近には、鎌倉幕府第3代執権北条泰時の娘「小菅ヶ谷殿」の居館小菅ヶ谷殿館があったと伝わる。
区内の長尾台町は長尾氏発祥の地で長尾城跡があり、越後の戦国大名長尾景虎(後の上杉謙信)の父祖の地である。また、鎌倉が近いことから、中世の動乱期にたびたび戦場となっており、中村氏の一族、中村常宗が笠間に移り住み勢力を張った。金井には鎌倉氏の一派・金井氏が居住した。
戦前から戦後にかけて、小菅ヶ谷地区を中心に軍事施設の時代を経験する。1937年(昭和12年)には第一海軍燃料廠の建設が決定され、戦後の占領軍による接収は1967年(昭和42年)まで続いた。
明治時代から現代までの発展としては、1888年(明治21年)の大船駅の開業と翌年の横須賀線の開通による大船駅周辺の市街化と、1967年(昭和42年)の大船PX(占領軍物資倉庫群)返還以降の本郷台駅周辺の公共施設や高層住宅の建設、そして1960年代から1970年代(昭和40年代から50年代)にかけての丘陵地の大規模な住宅開発があげられる。その結果、現在の栄区域の人口は急増し、当時の戸塚区の人口も40万人を超えたため、住民サービスの低下を防ぐために戸塚区から栄区と泉区を分区した。栄区成立後は人口増加率が低下し、一時は人口減少状態となった、現在は再び増加基調に戻っている。
なお、1970年代半ばまでの本郷地区は、電話が横浜電話でなく鎌倉電話に含まれ、市外局番が他の市内と異なり市内へ掛けるのにも「045」をダイヤルしなければならなかった。
なんだって。
↑ 今度わんころずのお散歩で回ってみよう。
旅は好きだけど、私の気質としては遊牧民族ではなく土着民族なので、きっとここに住み続けるんだろうな~。
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