久しぶりの怒涛の城攻め 岐阜3日目

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んで3日目。
道の駅から岩村城へ向かう途中の飯羽間城址に寄り道。

田んぼの中に残っている小高い山の城址で、城マニアの人のブログでは山中に入った記述もあったんで、入り口を探してみた。
でももうほぼ打ち捨てられているような状態で、山の中なら藪漕ぎもするけど、逆に人里近い手入れされてないところはなんだか踏み込めない(T ^ T)


以前は村おこしで頑張ってみたんだろうな・・・・


山頂にはこんな看板があり・・・・


こんな説明版や



お休みどころがあり


落城の唄があったり


入り口の説明もあるのに


入り口あまりに草と木々がボーボーで入れなかった・・・・


藤が満開。
ちなみに飯羽間城址は築城年代は定かではないけれど、
鎌倉時代に遠山氏によって築かれたと云われ、「遠山七家」(岩村・明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木)の1つだそうです。
昨日訪れた苗木城は、ここの城主であった遠山友勝が織田信長の命を受け移り住み、子の友忠が城主となったお城。その後、友忠は後阿寺城へ移り、子の友信が城主となります。

織田信長と武田勝頼が東美濃を争っていた時代。岩村城を手に入れた武田勝頼が、3万の軍勢を持って攻めて来ると織田信長は3万の軍勢を出して応戦。
力の差で織田勢はやむなく退去。武田軍は遠山十八子城を次々と攻め落としていき、最後に残ったのがこの飯羽間城。

この時の城主は遠山友信ですが、城内に突入した武田軍により土蔵で捕まったそうです。
城主が土蔵で・・・というのが???ですな。
このことについて武田側の記録では武田軍が飯羽間城を攻め落とし、土蔵に隠れていた遠山友信を生捕りにして連れ帰ったとあり、
織田側の記録では遠山友信が寝返っていて、そのまま甲斐へ連れ去られましたが、後日織田軍により処刑されたとされています
どっちなんでしょうね~。
こんなことを考えながらの城址巡りが楽しい♪ 一つ城址を訪れると芋づる式にあそこも行かなきゃ、ここも行かなきゃとなる所以(笑)

このブログの説明が面白かったですよ(笑)

そして今日の本命、女城主の城、岩村城。
ここも7年ほど前に来てるけど、その時はスタンプラリーやってなかったからね。
今回はちゃんとスタンプ帳持ってきた(笑)
ここは大和の高取城、備中の松山城と並び、日本の三大山城の一つで 別名霧ケ城の通り地形から霧がよく立ち上り城を覆うことからついた名前なんだそうで、ここは山城の中でも一番標高が高いのだそうだ。


今回のマイブームマンホール。いわむらはこれ。



やはり城ブームか、前回は城マニアっぽい人にしか会わなかったのに、完全に観光地化してる(笑)
けっこう厳しめの坂を、老若男女えっちらおっちら登ってくるね。


人が増えてありがたいのは説明がどんどんしっかりしてくることかな。
要所要所にQRコードで復元した様子の説明がされてて臨場感は上がる。


さ、今日も登るでしよ。




高いとこは怖いので低めの石垣の上でかっこつけてみた。

ぼくは怖くないでしよ♪


この苔むした感じがいい。

ちょうどお昼時。
岩村城の下にある岩村山荘の戦国料理。
前回気になりつつも寄らなかったので、今回こそ・・・・なんて思っていたのに、前二日は太陽が出ていても肌寒い陽気だったのに、今日は絵にかいたようなカンカン照り。
日陰の駐車場が無く断念。
いつか秋口とかに来るときあるんだろうか・・・・・(笑)

お昼と諦め、岩村城下に下りてくるとすごい車でびっくり。
岩村城、城下町散策のほかにも7年に一度の岩室千本佛の御開帳の日だったようで、そこにお参りする人たちも押し寄せてきていたみたい。

これで予定していた今回の旅行のメインディッシュは終了。
実は明日の夕方からライズのホールド変えだということもあり、今日帰路につくことに。
なので残りの時間は帰り道のお城でも潰していくのかな・・・・なんて勝手に思っていたら、なんと意外な城名がじょんさんの口からっ!!

美濃金山城。
いやいやいや、帰り道とは程遠い、反対方向じゃねーか。
しかし、苗木城で手に入れたパンフレット「ひがしみのの山城」には恵那市の岩村城、中津川市の苗木城、可児市の美濃金山城が取り上げられてる・・・・・・しかも続100名城になったんだよなぁ、このお城。
話してるうちにだんだんだんだん私も気になってきちゃうじゃねーか。

というわけで、こうなったらヤケじゃーーーーーーっ!!三度??四度??五度???

お巡りさんがいないのを確認し(笑)飛ばせーーーーーーーーーっ!!!

金山城は森家のお城。みんながよく知るのは織田信長のそば近くに仕えた森蘭丸(乱丸)ですかね。
もともと烏峰城というお城が織田信長の家臣、森可成が入城し金山城と名前を変えます。
蘭丸もここで生まれ城主に。本能寺の変で信長とともに亡くなります。
最後の城主は森忠政。秀吉の家臣として活躍。
今の城跡はこの時の様子が残っているんだそう。
今は城山公園として整備されていて、管理棟脇ではBBQができるそうで、連休中の今日は外国の方々の大BBQが開催されてました。
何語だかわからなかったけど、往時に想いを馳せるにはあまりににぎやか(笑)
少し登って、BBQの喧騒が聞こえなくなってからやっと登城な気分。




関ヶ原の戦いの後に破城され、その時に壊された痕の残る石垣。


大堀切。


蘭丸産湯の井戸。




展望台からの絶景。
駐車場隣にはおしゃれなカフェ。でもここも日かげの無いカンカン照りで断念(´;ω;`)
一番下の駐車場からイメージできる全貌よりもずっと奥の深い城跡でした。

ここまで来て終わる私たちではない(笑)

次に気になったの明智光秀を生む明智一族のお城明智長山城。
再来年の大河ドラマの先取りを目論んでね(笑)
この辺りは土岐明智氏の出自の地で、明智光秀を生んだと言われています。
『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したと記されているようで。

・・・でも帰ってきてネット見てたら岐阜県よりも福井県とか
滋賀県の方が盛り上がってないかい??(;^_^A
あ、京都ももちろんね(笑)

ここも駐車場がわかりにくかった。
城跡の下に小さな駐車場があるので最終的にはそこに停めたけど、実は近くの光蓮寺さんの広大な駐車場を利用してよいそうです。
これはありがたい♪

ちなみに反対の隣の天龍寺さんには明智一族のお墓があるんだけどね、ここには駐車していいのかどうかはわかりませんでした。
なにせ人がいなくて(;・∀・)




こんな感じの道を登っていきます。




馬防柵や逆茂木なども再現されてて、それなりに整備しようという思いが伝わる。

さて、さすがにもう帰ろうか・・・・・・・あ、でも待って!
この地図によるとすぐ近くに久々利城跡があるってよ♪

このお城、築城年代は定かではないけれども、土岐康貞によって築かれたと云われています。
康貞は美濃国守護土岐氏の一族で土岐頼清の四男。三河守悪五郎と称し、その子行春の時より久々利氏を名乗りました。

天文の頃にはさっき訪れた金山城の前身、鳥峰城主斎藤正義に従っていましましたが、天文17年(1548年)斎藤正義を久々利城へ招き酒宴を催して暗殺(一説に斎藤道三の命による?)。
永禄8年(1565年)東美濃に侵攻した織田信長は金山城主として森可成を置き、久々利氏はその配下となりますが、天正11年(1583年)森長可は悪五郎を金山城へ招いて酒宴を催し、
その帰路悪五郎を殺害し、久々利城を奪って久々利氏は滅亡した・・・・という歴史を持ちます。

その久々利城、今は大変綺麗に整備されていて、幟も立ち並び、小さいながらなかなかの見ごたえでした。
あまり期待していなかっただけに、テンションかなり上がりました(笑)








入り口。


説明版もなかなか。

というわけで一日で五か所の山城攻略は体力的に限界です。
昔の足軽もびっくりです(笑)

さすがにもう帰りましょう。
山城はさんざん歩いたけれど、ほかのわんこと遊んでいないこへのために、ドッグランのあるサービスエリアに寄って帰る作戦です。
まずは岡崎SA。
すんごいたくさんのわんこがいるけど、なんだかみんなのんびりしてるだけで、どのわんこもこへと遊べるパワーを持ち合わせていなかったので(笑)、はい、次次っ!!
んで浜松SAのドッグラン。
ここではボーダーの子がこへと取っ組みあいで遊んでくれて、こへも相手が大きいためへとへとになるまで遊んで大満足。

新東名は御殿場を過ぎてから渋滞がすごそうだったので、箱根越え。
連休なのでライトアップをしてて普段よりもずっと遅くまで営業してたスカイウォークの渋滞にかかっただけで、あとはほとんど渋滞無しで帰ってきました。

しかし、走行距離1000キロの私もへとへとなのには変わりなく、荷物も半分くらい上げられたのみで、洗濯機も回せずとりあえず撃沈。

楽しい連休後半の旅行でした。
じょんさん、こへ、今回もありがとねーーー♪

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